対価をもらうと言うこと

パソコンを直したり、ホームページを改修したりして報酬をいただくことがある。私にとっては、パソコンを直したり、改修したりって言うことはそんなに大変なことではない。むしろ、朝飯前だ。それに対して報酬をいただくと言うことに、いささか戸惑いを覚えることもある。

自分の持っている技術で人の役に立つ、それはとても嬉しいことだ。私は人の役に立ちたい。一方、依頼人は不満が解消される。それでイーブンだと私は考えている。

私は、自分のやっていることに価値がないとは考えていない。そういう意味で、対価がいらないと言っていう訳ではない。私にとっての一番の対価は、依頼人の笑顔、満足な顔、それだけだ。極論を言えば「ありがとう」と言ってもらえればそれで十分なんだ。だから物理的な対価は無くたって構わないと考えている。

だけど、依頼人によってはそれを良しとせず、報酬を私に渡そうとする。その場合、私はありがたく頂戴することにしている。それが、依頼人の気持ちなんだから、受け取らないのは失礼だと考えるからだ。

時々困ったことになるのは、「報酬はいくらお支払いしましょう?」と聞かれるときだ。前述の通り、私から報酬を要求することはない。それは、「ありがとう」の言葉が報酬だからだ。一方、依頼人は報酬は支払いたい、しかし、相場が分からない。つまり、報酬をいくら支払うのが妥当か分からない。そういう時にこの問答が起こる。この時になってある程度の報酬額を自分で決めて(ただし、相場よりかなり安いと思われる額)お伝えする。それで依頼人さんにどうするか決めてもらう。報酬は最後まで依頼人さんに決めてもらうのが私のスタンスだ。

それはなぜか。理由は簡単だ。それは私にとっては朝飯前のこと、依頼人にとっては難題だからだ。つまり、その問題を解決した時の価値(=問題が取り除かれたと言う価値)は依頼人さんにしかないからだ。だからこそ、対価(問題解決に対する価値)は依頼人さんが決めるべきだと私は考える。

簡単な例を挙げよう。例えば、ファイルを1つ復元して欲しいと言う依頼だとしよう。そのファイルが亡き祖父の画像だとしても、裏ビデオの動画であろうと、明日提出する卒業論文のドキュメントファイルであろうと、私には関係ない。1つのファイルだ。何が言いたいかと言えば、私にはそのファイルの真の価値は分からない、と言うことだ。それなのに、私が「では5千円で」と勝手に価値をつけることはできない。それは、失礼だと私は考えている。なので、報酬は基本的に依頼人に決めてもらっている。

我ながら難しい性格だなぁと思う。でも、そう考えているのだから仕方ない。

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