今日、友人の訃報を聞きました。それなりに仲良くしていた友人だっただけに無念でならない。ただ、その友人も私と同様にメンタルを持っていたし、割と高頻度で自殺未遂やオーバードーズをしていたのをTwitter越しに眺めていたので、(言葉を選ばずに言えば)この結果も必至だったのかなぁと。
その友人との出会いは5年前。やや遠方に住んでおり、直接会ったのは1度。コロナが落ち着いたらまた会おうと話していただけに、辛いものがある。ただ、その友人も「陸の魚」の生き物だったので、これが幸せなのかもしれない。いずれにせよ、想像だからこれ以上は止めておこう。
私はこれまでに何度、友人・知人を見送っただろうか。病気で亡くなった友人もいたし、自ら選んだ友人もいた。結果は同じだけど、理由は違う。そして、見送った人もこの世界で生きていた。それもまた事実だ。
「人は二度死ぬ」と言う言葉がある。一度目は肉体の死、二度目は忘れ去られることによる存在の死、と言うもの。もしこれが本当ならば卑弥呼はある意味、不死なのかもしれない(存在しなかった等の議論は置いておきます)。
その考えが正しいとすると、(一般的に)人が有名人になりたいと願うのは存在の死を避けたいから、なのかもしれない。肉体の死は避けられないが、存在の死は避けることができるからだ。仮に私が前述の友人のことを覚えている最後の人間だったとしよう。すると、私が死ねばその友人は二度目の死を迎える。
それに気づいた時私は、見送る側の人間は「遺された者」や「置いていかれた者」ではなく「託された者」なのだと思うようになった。今生きている人は、故人から故人自身の生きた証を「託された」のでは無いだろうか。
そう思うと、気が軽くなった。そして、前向きに生きようと思えるようになった。
話は変わるが、死ぬということは案外簡単なものなのかもしれない。私だってこのブログ記事を書き終わるまで生きているかは分からない。突然心臓が、なんてこともありうる。
私たちはそういう、とてもとても微妙なバランスの中に生きている。いつ人生の平均台から足を踏み外すかも分からない。これではまるでカイジの鉄骨渡りと同じではないか。本当に諸行無常だ。
だからこそ、できることはできるうちにしたい。写真も撮りたいし、遊びたいし、もっと書きたい。焦っても良いことは無いのは分かっている。これもまた諸行無常か。
兎にも角にも、私は「託された者」なので、この先も生きられる限り生きる。
(無事にブログは書き終わりました)
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